北山田地区 14村(自治会)の成立の歴史 北山田地域づくり協議会

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北山田地区 14村(自治会)の成立の歴史

利波河・徳成・東殿・高畠・神成・久戸・在房・梅原(安丸・中筋・上村・出村・白鷺)・宗守・鍛治

 北山田地区は、古くは山田郷と言って、現在の山田、南山田、北山田をつつむ一帯の一部である。1185年文治元年頃は、山田郷は京都の仁和寺の領地・庄園であったらしい。その後室町時代末期には、京都の本願寺の支配下となり、井波の瑞泉寺がここを代官した。 1481年文明13年頃、山田郷を含む一帯は、本願寺の勢力が飛躍的に拡大し、信仰によって農民は団結し始めた。その当時の名残で宗守や東殿からおびただしい数の五輪塔が発見される。

 その後瑞泉寺を中心とした農民団結は、一揆を起こしたりして、自らの利益擁護のために戦いながら、次第に生産力を高め、自立化の方向をたどり、現在の村々の大半が形づくられた。利波河・徳成・東殿・高畠・神成・久戸・在房・梅原(安丸・中筋・上村・出村・白鷺)・宗守の村はこうして大体戦国時代までに村として成立したものである。(鍛治が抜けている) 

 1585年天正13年8月に、前田利家の領地となり山田郷の農民に久しぶりに平和が到来した。その後約40年間の加賀藩の検地は、土地の広さの測量と生産力を決定する石盛という作業も含む独特の方式で面積当たりの標準収量を決めるものであった。それに免相(税率)を掛けて年貢米の量を決定し毎年見直し、年貢米を徴収する加賀藩の農政の基本法(改作法)は、藩政が終わるまで続けられた。加賀藩による年貢の取り立ては厳しく、農民の生活は困窮し離村し他国へ移住するものがあとを絶たなかったそうである。その改作法の実施に伴い、新田開発も進められた。

 鍛治村の成立は、北山田の他の農村の形成とは異なっている。鍛治の大能家は、代々刀鍛治を業とし、元々は越前今生にあったが、その後、京都、金沢と移り、安居寺の普請のため越中に住んだ。1666年寛文6年、鍛治職の傍ら新田開発に従い、鍛治新村という一村建を許され、それが今日の鍛治村につながっていると思われる。

参考文献:北山田のあゆみ(小学校閉校記念 昭和58年7月1日発行)
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北山田地区の人口・世帯数
世帯数 492
男性 750 女性 769
計 1,519
(2020年 4月)
広報誌

2024年08月05日

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